潟Iフィスクアトロは 2011年4月4日に守口市の最も中心部である、
守口ミッドタウン文禄ヒルズ ザ・タワー に本社を移転致しました。
文禄ヒルズとは守口のシンボルでもある本町橋のたもとに新しく建設されたばかりの
30 階建ての超高層ビルです。
かつては、ここは守口市が市役所(町役場) を置き、計算センターを置いていた場所です。
さて「文禄ヒルズ」という名前は、豊臣秀吉が文禄時代に諸大名に命じて作らせた
「文禄堤」という名前の淀川左岸の堤防にその名を由来しています。
潟Iフィスクアトロは、この文禄ヒルズ ザ・タワー 5F フロア全体を借り受けてスケルトンで
何もない状態から 2ケ月の工期を経て内部に文禄時代をイメージした城壁をめぐらせて
これまでにないオフィスを作り上げました。
文禄ヒルズのある文禄堤は守口でも最も歴史を持つ場所でもあります。
文禄堤は江戸時代にはそして東海道57次の 57番目の守口宿として栄えました。
守口を創業の地とする潟Iフィスクアトロと文禄堤、京街道の関わりを詳しく解説致します。
本能寺の変(1582年) からわずか1年でほぼ全国を平定した秀吉は
翌年には大阪城を築城し、12年後の文禄3年(1594年) に隠居用には
伏見城を作り、伏見城と大阪城を結ぶルートの淀川の堤防としての
文禄堤を毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じて築かせました。
当時の淀川は淀川左岸には堤防が無かったために河内平野での氾濫が多く、
京都と大坂のあいだの河内は沼地のようであり、交通は遠く東へ
迂回しなければなりませんでした。
淀川は現在のような一本の本流ではなく、いくつもの支流から成っており、
治水工事はされていませんでした。( このあたりは昭和30年代まではやはり
沼地が数多く残っていて蓮根畑が多かったものです。)
そこで秀吉は京都と大坂の最短路と同時に治水工事を兼ねて文禄堤を
作らせたのです。
こうして秀吉の文禄堤によって京都と大坂を結ぶ「京街道」が慶長元年(1596年)
に総延長27km に及ぶ文禄堤も入れて、わずか3年で完成させました。
それで文禄堤は太閤堤とも呼ばれています。
文禄堤は京都と大坂の京街道を担う道となり、しかも河内を淀川からの
氾濫からも救いました。
また水路の高額な船賃を払うことから多くの人々が解放されたとのことです。
この文禄堤の跡の堤防が守口にだけ 約 700 m ほど残っています。
京阪電車守口市駅を降りて北西に向かってなだらかな坂道を登ると、
そこが文禄堤です。駅前のロータリーには守口市教育委員会による
「文禄堤の跡」を示す碑があります。
そしてこの文禄堤が守口のシンボルとなりました。守口と言えば文禄堤です。
文禄堤は今なお守口のシンボルとして往時の面影を残しており、
歴史散策を楽しむスポットとしてその雰囲気を漂わせています。
文禄堤の歴史を今なお感じさせてくれるのが当時の防火壁である
「うだつ」のある古い家並みです。
格子戸や提灯屋や名物の写真館やうだつのある家をそのまま
店にしてしまった中国料理店等、タイムスリップしたかのような歴史の町並みが雰囲気いっぱいであなたを迎えてくれます。
かつては電電公社(NTTの前身)守口営業所もここにありました。
武士の幽霊が出る、との噂がある場所があるのも雰囲気のせいでしょうか ?
文禄堤の家々は新築でも今でも意図的にうだつを作るところもあります。
また家々は実は奥行きがすごく長くなっており広い家でもあるのです。
文禄堤には小さな下る坂がいくつもあり、その中のひとつの来迎坂には
石の道標があり「右なら のざきみち」と「左京」と書かれていてここが
京都と奈良の別れ道であるかのようです。
ここから始まるのが奈良街道であると言われており、文禄堤がいかに
交通の要であったかがわかります。
奈良街道はまた守口街道とも呼ばれていました。
難宗寺の脇にある道標の「守口街道」とはこの道を意味しています。
また来迎坂の名前の由来は蓮如上人が枚方の光善寺から堺へ行く途中で
守口に立ち寄ったときに今の守口の来迎町で教えを説かれ、その教えに
感動した来迎衆が一斉に全員、揃って浄土真宗に帰依したとの由来が
伝わっています。大日にある来迎寺はこの地が発祥です。
守口を題材とした「守口宿 文禄堤」という名前の日本酒がありますが、
そのラベルを飾っている守口のシンボルがこの本町橋です。
文禄堤にはもうひとつ「守居橋」という名前の橋があります。
いずれもかなり古い橋であり、徒歩で渡るにも心配になるほどですが
守口市民はこの本町橋が守口を代表する中心であることを良く理解しています。
文禄ヒルズはこの本町橋のたもとにあり、かつては守口市役所が現在の
ザ・タワーの場所にありました。
その後、守口市役所が一号線前への移転に伴い、跡地は守口計算センター
となり、さらに近隣の土地を民間から買い上げて現在の文禄ヒルズと
なりました。
文禄堤には「追立」(おいたて) という名前の薬膳料理の中華料理の店が
あります。主人は香港で修行を重ねて「料理の鉄人」にも出演した料理人です。
店は文禄堤の民家をそのまま改造したもので店内には「文禄の井戸」と
呼ばれる井戸もあります。
追立は守口を中心として数店舗を大阪に展開しているわりと高級な
中華料理店です。追立が最初に開いた店がこの文禄堤の店であり、周囲の雰囲気とよく調和しています。
1階が中庭と文禄の井戸があるテーブル席で2階には個室と団体用のお座敷があります。人気店なので予約されたほうがよろしいでしょう。
「柿右衛門」(かきえもん)は守口を代表する唯一と言っても良い高級な
料亭です。
三洋電機の役員も利用されるとの噂もあり、中は全室が個室であり、微妙に複雑な作りで
しっとりと落ち着いて会席料理の店です。完全予約制です。
冬には全室にコタツがあり、黙っていても熱燗が用意されます。
ただし部屋の作りが複雑なためトイレに立つと帰り道には迷わないよう注意が
必要です。
料亭「柿右衛門」による文禄亭は予約なしで手ごろな値段で楽しめる
創作和食の店です。夜はやたら、しゃも料理がオススメになるが
昼間のランチは値段の割りには豪華で好評です。
明治23年に日扇証人が京都から大坂へ下る途中で守口の茶店で
休憩したときに、ここで亡くなったためにその由縁で建立されたもののようです。
「南無妙法蓮華経」の題目碑は野江にあった豊臣残党の処刑場の碑を
明治時代にここへ移したものらしいです。
京街道とは秀吉が毛利一族等に命じて築かせた文禄堤を起源とする大坂から京都へ向かう街道です。
京街道は、京都に向かうときには「京街道」と呼ばれ、大坂に向かうときには「大坂街道」と呼ばれていました。
江戸時代になると京街道は大阪の高麗橋を出発点とし、元和2年(1616)には
の4つの宿を加えて東海道五十七次と称されました。
守口は江戸から見て57番目の宿ということになります。
この京街道を代表するのが文禄堤ということになります。
八雲町には当時の京街道の一里塚の跡が残っている。
ここが往時の守口の東の入り口となっていました。
本陣とは大名の宿泊宿のことですが守口にも本陣があり、
現在では南大門という名前の焼肉屋(現在は廃業) のとなりの自転車置き場と
なっています。
守口本陣跡の前の竜田通りは幅約15m と広いのは当時のままであり、
守口は宿というよりも物資の集積所として栄えたらしくそのため当時としても
幅の広い道路となったようです。
守口本陣の向かいには、大塩平八郎を信奉して経済的に支えたとされる
豪商の白井孝右衛門の家があり現在の白井家です。
京街道はこの書院跡の前の竜田通りでもあります。
残念ながら 2010年 12月下旬に この邸宅は取り壊されてしまいました。
写真は取り壊す前の姿です。
鳥羽伏見の戦いにおいて薩摩・長州連合軍に負けて徳川幕府軍が大阪城へ敗走したのが
この京街道であると伝わっています。敗走のシンガリを勤めたのが新撰組ですが
淀城を始めとして、ことごとく幕府側から新政府側への寝返りがあり、どこの陣地にも
入ることができず、ただ京街道を逃げるしか無かったと記録されています。
その後、大阪城に入城した徳川慶喜が船で江戸へ逃げ帰ったために徳川幕府の瓦解が始まったのは
言うまでもありません。秀吉が作った京街道を260年後に最後の徳川家の将軍が同じ場所を通って
逃げ帰ったとは運命的な話です。
鳥羽伏見の戦いに勝利した大久保利通は幕府軍を追うようにして、
京街道を下って慶応4年(1868)3月22日夜、明治天皇とともに守口に
やってきます。明治天皇や大正天皇が宿泊したとの歴史がある難宗寺の角には石の道標が残っています。
明治天皇の宿泊を示す「御行在所」と大正天皇が皇太子のときに
宿泊したことを示す「御仮泊所」。
さらにここが京街道であったことを示す「すぐ守口街道」「すぐ京」「左京」「右大」との記された道標があります。
難宗寺とすぐ近くにある盛泉寺は「幻の大坂遷都」の舞台になったところで
大坂遷都を明治天皇に上奏した大久保利通が天皇を大坂へ案内して
一夜の宿をとったところでもあります。
大坂遷都の案は江戸城の無血開城によって幻として終わりました。
京街道はこの後、国道一号線の守口車庫前から今市、千林、森小路、関目、都島を抜けて京橋に至ります。
さらに京橋から天神橋を経て東海道終点の高麗橋に至ります。
京街道の碑文等は文禄堤だけでなく今なお高麗橋に至るまで現代の道標として残っています。
2006年9月歴史的な大発見がありました。
豊臣期の大阪城と城下を描いた屏風が新しく発見されたのです。
オーストリアの第2の都市グラーツ市の郊外にあるエッケンベルグ城の
「日本の間」の壁のパネルとして1枚ずつ埋め込まれていることが
発見されたのがNHKでも紹介されて話題となった「豊臣期大坂図屏風」です。
豊臣期大坂図屏風は江戸時代に日本から何度となくユーロッパに輸出された
屏風の一枚であると推測されます。
当時はヨーロッパは貴族たちのバブル期であり、輸入された日本の美術品が
貴族たちによって競って買いあさられていました。
しかし茶器や陶器も飽きられてくるようになってヨーロッパに出尽くしてしまい
ました。ところが、屏風を出したところ大変、好評で即日に売れるというほどの
人気になりました。
しかし屏風を乗せてヨーロッパまでの大航海となると、船が沈んだり
鼠に食われたり、さらに海水に弱い屏風がヨーロッパまで無事に着くことは
稀れであったようで大半が駄目になるか海に沈んでしまったようです。
その中にあって豊臣期大坂図屏風は無事に大航海を終えた現存する唯一の
貴重な屏風絵なのです。
しかしさらに危機がこの屏風絵を襲うことになります。
それは第二次世界対戦末期のことです。
エッケンベルグ城は第二次世界対戦末期にロシア軍によって財宝や美術品が
運び出されてしまいました。
豊臣期大坂図屏風は一枚、一枚はずされてインドの絵と交互に壁にはめ込まれていたために美術品とは見えず、
そのため略奪から救われて無事に残ったということです。
こうしてヨーロッパへの大航海と略奪という二度にわたる難関を乗り越えて
豊臣期大坂図屏風は幸運にも奇跡的に生き残ることができたのです。
豊臣期大坂図屏風にはまだ興味深い事実がいくつもあります。
これが発見されて最も注目されたのは、大坂城に描かれていた「極楽橋」
という大坂城の北東、つまり鬼門の方角に描かれていた立派な橋が
見つかったことです。
屏風には大手門よりむしろ「極楽橋」を正面にして描いています。
この橋はイエズス会の黄金で飾られたきらびやかな橋であった、という宣教師の報告と一致するだけでなく
これは中国を始めとする京都からの使者を
受け入れるために秀吉が後から作らせた橋だからです。
鬼門の方角にありながらも「京街道」を通って京から来た使者を迎えるために
大手門より派手で豪華絢爛な橋を秀吉が後から作らせたのであろうとNHKは
解説していました。
「京街道」を通って? そうです。あの守口の文禄堤を通る京街道です。
ここで「極楽橋」と「京街道」, すなわち守口が「豊臣期大坂図屏風」と結びつく
ことになるのです。
極楽橋は秀吉の遺命により秀頼が琵琶湖・竹生島にある西国札所第三十番・
竹生島宝厳寺に移築されたとして国宝唐門として現存しています。
この唐門はバランス的に違和感があるところから研究が重ねられた結果、
元は極楽橋であったものを移築したものであるということが判明したとの
ことです。
実は豊臣期大坂図屏風は江戸時代に慶長年間(1596〜1615年)を描かれたものであり極楽橋も
慶長5年(1600年) には京都の豊国神社に移築されてしまっていることが記録に記されています。
しかし屏風は江戸時代の安定期になぜ大坂の慶長年間を描いたのかは謎です。
大坂図屏風は中央に大阪城を配置しているだけでなく、南は住吉大社から宇治の平等院に至るまでさらに
秀吉所有の屋形船など秀吉ゆかりの地をちりばめており秀吉に相当詳しい者が描いたと考えられます。
江戸の安定期になぜ秀吉を回帰する絵を描いたのか? これも謎です。
豊臣期大坂図屏風は複製品が大阪城に展示されることになったのはもちろんのことですが関西大学によって
陶器として実物の 1.5 倍大として複製されて 2010年の上海万博に出展されて多くの人々の目に触れることが
できるようになりました。
そして関西大学に戻ってきた屏風絵は今では関西大学の第一号館の展示されていますので一般の人々でも
自由に見ることができるようになっています。
大坂図屏風の復元・複製にはエッケンベルグ城, 関西大学そして大阪城天守閣の3者が共同してこれにあたりました。
そして関西大学は実物の 1.5倍の陶板製の復元を行い、大阪城天守閣はほぼ実物大の複製を作成して
大阪城天守閣に非常設ですが何度かの展示を行っています。
実は、もうひとつの大坂図屏風の複製が存在しています。
新しく文禄ヒルズに移転した潟Iフィスクアトロの会議室の入り口前に威風堂々と
飾られている「豊臣期大坂図屏風」があるのです。
これこそが守口を発祥の地とする潟Iフィスクアトロが、ここ文禄ヒルズに居を構えた理由です。
潟Iフィスクアトロの文禄ヒルズの新本社は、社内に城郭や石垣を配置した文禄時代の
城のイメージにデザインされており、来訪者は大坂図屏風とともに城のイメージのある
社内に驚くことになります。
これまでソフトウェア・ハウスと言えば洋式のイメージであり、ましてや社内に城壁を配置した会社なんて
日本中のどこにもなかったからです。
潟Iフィスクアトロはこれまでの既成概念を打ち破り、歴史的なこの地において創業したことを
誇りに思っています。この歴史の地において最先端の技術とサービスをこれからも提供して行きます。
守口の文禄ヒルズから全国に向けて潟Iフィスクアトロは発信し続けます。
京阪電車守口市駅に降り立つと駅のホームからでも見える、
ひときわ目立つ超高層ビルが北側にそびえ立っているのがわかります。
京阪守口市駅の北口を出て、ゆるやかな坂を上ると、そこは、文禄堤です。
文禄堤に出て左手を見ると超高層ビルが目の前にそびえ立っています。
これが新しく守口の玄関口のランドマークとなった守口文禄ヒルズです。
潟Iフィスクアトロは、この「守口ミッドタウン文禄ヒルズ ザ・タワー」に
2011年4月4日に本社を移転致しました。
潟Iフィスクアトロの新本社である守口ミッドタウン文禄ヒルズは
守口市が本町橋のたもとに所有する約 462坪の面積の土地に
三洋ホームズ株式会社が樺|中工務店に施工させて平成22年1月に
竣工した地上30階建ての最新の免震構造の超高層ビルです。
ミッドタウンにはレジデンスとザ・タワーの2つがあり、ザ・タワーはそのうちの
高層ビルです。
1〜5階が商業施設であり6階〜30階が住居用のマンションです。
( 住居用マンションは守口市を所有者とする定期借地ですので高級感の割には買い得感がありますのでご検討されても良い物件です。守口は大阪市から見ると北東の鬼門の方角に位置しているせいか、土地や住居、物価の安い土地柄でもあります。)
商業施設のうちの事務所ゾーンは 5階部分だけですが
潟Iフィスクアトロだけが、この5階のフロア全体を賃貸所有しています。
潟Iフィスクアトロへは事務所専用エレベータで 5F までお越しください。